ひとつの問い
先日ある人から
「何のために占うの?」
という問いをもらったので、それについて書いてみようと思う。
私が知りたかったこと
もともと私は、占星術を学ぶ身でありながら、未来を知ることには興味がなかった。
私が知りたいこととは
「生きている意味」
というただ1点のみで、これは幼少期から今もずっと変わっていないテーマみたいなものだ。
私にとって占星術というのは、この点を最も明確に知ることができる最高の手段だ というところに意味がある。
占星術を学んでいる方ならよくわかる話だと思うけれど、「ホロスコープ」とはその人固有のものである。取り扱うのは平面図なので、イメージがわきにくいかもしれないけれど、簡単に言えば
「同じ時、同じ位置に、異なる人は立てない」ということ。
隣にいることや、目の前にいることと、同じ座標にいることは違う。
ホロスコープは、それを明快に表現してみせてくれる。
占星術との出会い
私が占星術の自己学習を始めたのは14歳の頃、1995年だと思う。最初に買った本は秋月さやか先生の「正統占星術入門」という本だった。子どもの頃、自分のために何かを買うことをほとんどしたことがなかった私が、珍しく自分のために買ったものだった。

当時は、まだ古典占星術の色が濃く残っていて、とくに「吉凶」の考えは今より遥かに強かったと思う。それでも、今でも私はこの本を最初に買ってよかったなと思っている。
この本の中で、占星術の視点は人の心の奥底の「魂」に対して向けられており、また伝統的な吉凶の概念に従いながらもそれを超えようとしているように、私にはなんとなく感じられたからだ。
何のために生まれたのか。
生きていることに意味があるのか。
自分に何の価値があるのか。
先にも書いたように、私は未来を知ることには全く興味を示さず、ひたすら人格を読み解くための方法を身につけようとした。
私はひたすら、自分を知りたかった。
解釈のとらえ方
ところで私は、占星術の解釈とは、化学反応のようなものだと捉えている。
占星術とは、星座(サイン)とハウス(空間)、天体・感受点と、それらの結びつき方を示すアスペクトを組み合わせて対象を読み解く技術。
単純な方程式のように書き表すなら
サイン×天体・感受点×アスペクト×ハウス=解釈
のようになる。
…と思われがちだが、実際にはこれでは要素が足りていない。
(サイン×天体・感受点×アスペクト×ハウス)×対象の現実=解釈
このようになる。
最後に掛け合わされるのが「対象の現実」であるということは、単純に考えれば当然のことだけど、学ぶほうにとっては途方もないことに思えてしまう。「対象となる存在によって、すべて違う」ということなのだから。
本などで書かれているのは、おおむねサイン、天体・感受点、アスペクト、ハウスまで。しかも、ひとつひとつの要素が示す内容の幅も大きく見えてしまい、覚えることは困難だ。
しかし、そもそもそれは「覚える」ものではなく、咀嚼して原理を知り、自分のなかに吸収して使うものだ。使えるようになるまでに時間もかかるけど、基礎ができてくると実にさまざまなことが一つの図から読み取れるようになる。心理・才能・成長のプロセス…。これから先、見えてくるものはまだまだ増えるだろう。
未来を知ることに興味がない理由
私が未来を知ることに興味がないのは、パラレルワールドの考えがあるからだと思う。
パラレルワールドとは、「過去を変えると、別の未来が出現する」ということだと思えばよい。
たとえば、現在を生きているある人がタイムマシンで過去に行って、過去の自分の行動を修正させるように仕向けて、それが成功したとしよう。しかしその人が現在に戻ったとき、その人が望んだ状態になっているとは限らないのだ。
1つの選択は無限の未来を生むのだから、未来に起こる事象を知って対策したとしても何の意味もない。別の形で問題が表面化するだけである。
なんとなく、伝わるとよいのだけど…。
占星術も、歴史を遡れば、もともとは社会や国家権威の未来を予想するために発達したものだ。
他の占術もそうだろう。平和で豊かで約束された未来があるなら、そこに辿り着くための道標が欲しいと思うことは不自然ではない。それがただ単に、人という存在が持ちうるはずの智を蔑ろにした、愚かさからきているものだとしても。
彼の存在が「生きる」ということは、それだけ辛辣で難しいものだったのだろう。
そのような占星術が、いったいどのような経緯で、国家権威の未来を予測するためのものから、個人の内面と向き合うものになっていったのかは詳しく学んでいないけれど、そんなに昔のことではないと思っている。
時を読む意味を見出すまで
20歳の頃、自己啓発のセミナーに参加したとき、私は占星術師になりたいとはっきり話していた。そのとき、心理学と融合させたいとも言っていた。けれど、それを実現することはできなかった。単に力不足ということもあるけど、理由の中には、自分自身の中で「占星術=魂と向き合うこと」ということを信じ切れていなかったことも大きいと思っている。
つまり、私自身が「占星術=占い=未来をあてるために使われるもの」というイメージに引きずられていて、それについて「世間はそう思うだろうから」という言い訳をし続けていたのだ。
それでも私はずっと、時を読む必要はないと考えていた。自分の原点にたどり着けば、どのように生きるかの答えは自ら見出せるだろうと思っていたからだ。少なくとも自分はそうだ。
ただ、他の人もそうか?と考えると、それはちょっと乱暴な気がしていた。それでは足りない人もきっといるだろう。
そして、説得力にも欠けると思っていた。人生のいろいろなタイミングで起こるたくさんの辛いことや悩みについて、その意味を見出して伝えることはきっとできないだろうと思ったのだ。
未来を読むことより、まず先に過去を振り返り、現在の意味を知るために時を読めばよい。それは、「生きている意味」をより鮮明に浮かび上がらせてくれるだろう。
そのような考えに至り、私は時を読む意味を見出せるようになった。「自分の根源あってこその自分の時」なのであり、「私だからこそ」の人生が、ひとりひとりにあるのだと実感できたためだ。
そして、私は、時を知るための方法を学んだ。
その人固有の「時」を読むことが、その人自身の真の姿を、一層鮮やかに描き出すことを願って。
問いに対する私の解
私はやはり第一に「生きている意味を知る」ために、占星術というツールを使うのだと思う。
これは、私にとっての理由であるだけで、他の人には他の人の理由があるはず。
「生きる意味」をはっきり知りたいという人もいれば、どうでもいいという人もいるだろう。どうでもいいということは、その人にとってはおそらく「まだその時ではない」ということ。
人生の中において、生きていることや目指している何かに対して「違和感」がでてきた時に求められればよい。
「違和感」を抱えたまま日々を生きるのは辛いことだ。
しかし、「違和感」を抱えているということは、その人の心の奥底で、魂が何かを叫んでいるのだろう。たとえそれがはっきりとした「声」という形ではなくても。
ただ、これは私のエゴだが、少しでも多くの人に、その声に気づいてほしいという願いがある。人を、そして人類を真の意味で進化させていくのは、「純粋な願い」であるから。
それから第二に、目の前の相手の「可能性が見たい」。
人は、私も含めて意外と自分のことは、わかっているようでよくわからないものだ。
「ジョハリの窓」という考え方をご存じだろうか。
これは、ひとりの人の中には、「見えている領域」と、「見えていない領域」があるというとてもシンプルだけど納得できる考え方のこと。自分で認識できる自分とは、実際には一部だけで、人から見て初めて発覚する面もあれば、誰も知らない面もある。

自分と他人、両方の視点をとおして自分を観察すると、隠れていたたくさんの可能性を自分の中に見出すことができる。占星術は、これを実現するのにとても適している。自分の中の未知の才能を教えてくれるのだ。
人の才能を発見できた時の面白さといったらない。私にとって、それは至上の歓び。最高に興奮することなのだ。
いまの地球上の人口は近代以降異常に増えたものだとはいえ、無数の人が今も地球上に存在しているのには、まだ何らかの意味があるのだろう。
もし意味がなくなっているのなら、人類自体が存在していないのではないかと私は思う。ならば、人類が為すことが何かあるのではないか。
何をすべきか、何ができるかということは簡単にわかるはずもないが、それは人類全体で探るテーマだろうと思うので、現在の私はこの占星術というツールを使って、そのテーマを探る塵の一粒のようなもの。
見えないものとひたすら向き合い、ひたすら自問自答しながら生きたいと思う。マゾイけど。
それが私である。