命が宿る瞬間がひとつの奇跡ならば
生まれてきたことも
今生きてることも
それ自体が奇跡で
神秘のひとつだ
ならば
神秘とは現実のいたるところにあるもので
本来それぞれを切り離す必要がないもの
けれど
人はいつから
現実と神秘を切り離すことが当たり前だと思うようになったのだろうか
いつからかはわからないけど
人はこれまで
自分を取り巻く社会への適合のために
自らの願いから目を背けさせられ続けてきた
あるいは
それは命を守るために
自ら選択した苦肉の策だったのかもしれない
社会に背いたとみなされれば
命を絶たれたり
居場所を失ったりしたからだろう
けれどそんなことを何千年以上も続けて来て
その結果できあがった現代の世界に生きていて
心の底からしあわせだと思っている人は
どれくらいいるんだろうか
自らの真の意志に基づかない選択で人生を生きて
それで満足だというのならば
それは他者の奴隷であればいい ということ
人は奴隷でありたいのだろうか
それは本音なのだろうか
歴史の中には
奴隷になることを拒み
自分の人生を明け渡さないために
苦しみながらも自らの根底からの声に従いながら
生きた人もいる
けれど
それは社会への不適合だとか反逆だとみなされたり
あるいは憐憫の対象になったり
なかには
歴史を彩る芸術品となっていったりした人もいる
「あんなふうに生きられたらいいのに」
「尊敬する」
そのような言葉はよく聞かれる
言葉に反して
行動する人は稀なので
上っ面だけで中身がないと評する人もいるだろうけど
多分そういう言葉は
そこにわずかながらでも
本音が混じっていないと出てこないような気がする
いまこの国の中で
現代社会を生きる人の多くはきっと言うだろう
「魂の声を聴くなんて、生きていくのに関係あるの?」
けれど
そう言われると私はどこかで思ってしまう
「魂の声を聴くことが、そんなに現実離れしたことなの?」
「スピリチュアル」という言葉が軽々しく聞こえたり
軽々しく扱われたりするのは
息苦しい現実から逃れるための手段だというイメージが
社会に蔓延しているからだろう
魂の存在を
現実から隔離された領域に追いやり続けることをやめて
現実の中に呼び戻し
統合していくことが
現代を生きるために
次の時代を作るために
大切だと思う
自由とは
自らが創り出す以外には手に入れることはできないもの
与えられる側である限り
一切縁のないものだろう
人は奴隷でありたいのだろうか
そんなはずはない
と私は思う
そう願ってやまない
この文章は、2017年5月29日にFacebookウォールに投稿したものの転載です。