コンテンツへスキップ

宿命と運命と、命術師としての姿勢

アイキャッチ:ダークな心や考えのイメージ

※これは 2024年10月21日 0:39 にXにて呟いたものを少し添削したものです。

この頃は宿命についてたびたび考えるようになった。

私は占星術(心理占星術)という命術を使う者である。

しかし、対象となる存在が持つ意味そのものの熟考や、可能性の発掘・開花を重視していて、宿命というものをあまり重く考えては来なかった。

けれど現在自分のいる流れはもしかすると、その存在が持つ宿命をあまりにも軽んじてはならないという教えなのかもしれない。そんなふうに感じることが増えた。

人生には停滞期がある。

その期間に秘められた意味の重要度にもよるけれど、最も重い意味を持つ期間中はどう抗っても無駄というか、脱却行動自体が事態の悪化を助長しやすいし、その傾向は変えようがない。
そして、そんな時期の到来を予測して準備をしていたとしても、結局失わなければならない場合はそのように事態が運ばれる。
全ての備えが無意味なわけではないが、最終的には帳尻を合わせられるようだ。

希望を棄て続けるフェーズにいた前半生の間に何度もあった停滞期では、その度にもがきはしていても最初からの諦めがあった。それは「常に悲痛があることには変わりない」というもので、この意識がある意味、自分の意識状態を平常に保っていた。

しかし、人生のフェーズが変わり、浮上し始めてからの現在の停滞期は心の持ち方が違っていて
「もしかしたら何か突破口があるのではないか」
「今の自分ならなんとかできるはずだ」
という意識へと変わっており、結局これが実際の現象面において大きな苦労や失敗、挫折をもたらすことになった。
※ただし今回の停滞期は当初の予想より遥かに意味合いが大きかったらしく、その特殊性を鑑みることは忘れてはならないと思っている。

(西洋占星術においての)宿命とは、生誕時に刻印された出生図と、その図内の各感受点と進行図・経過図との間に形成される全ての関係性のことである。

出生図が決まった時点で進行図・経過図との位置関係やアスペクトは全て決定する。それはすなわち個人の持つ人生のベースプログラムである。

つまり宿命はすべてあらかじめ読むことができる。

しかし人生は宿命のみで動いているわけではなく、本人の自由意志 + 自分以外の存在との関係の中で揺れ動く「運命」のはたらきを必要とする。運命は「コマンドやプラグイン、環境等の使用条件」のようなものであり、命術で読めるものではない。

宿命と運命は別物だがその相互関係は深く、強制的に断ち切ることはできないし、また無理にそれをしようと抗う必要もないのだろう。
必要なのは、ひどい絡まりや、あちこち無造作に作られた厄介な結び目を丁寧にほどくことだ。

宿命そのものの側に話を戻すと、このベースプログラムは、私のこれまでの想像よりはるかに神秘性を帯びたものだということを、このところ現実を通して痛感させられるばかりだった。

たとえいつか宿命を超えることが魂の至上命題なのだとしても、この精巧な神秘を軽んじて扱うことに、私はもはやメリットを感じなくなった。

一方で、宿命とは束縛ではない。束縛だと考えて読む者にはそのように解釈もできようが、本質的にはやはり「意図」であろう。

本人の人生の意図。
魂の意図。

その意図を尊重し、自由意志と世界との関わりの最適化のために、今後も命術師として取り組みたい。

コメントをどうぞ

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.