「月」についての考察2:渇望の正体を考える

アイキャッチ:月夜

ちょうど1年ほど前、月についていろいろ考えていたことを記事にまとめました。

この記事はとてもたくさんの方にお読みいただくことができ、大変うれしく思っております。お読みいただいた皆様、ありがとうございます。

さて、この記事を書いた後Facebookに投稿した際、レスポンスをいただいたことをきっかけにまた考えが進んだ部分がありましたので、今回はそれを整理してみたいと思います。

「月」の渇望とその正体

上述の記事のきっかけにもなった「月」の大議論の骨子に「月ばかりにフォーカスし満たそうとしていくと際限がない」という論考がありました。渇望し続ける月は全てを飲み込んでも満たされることがなく、やがて人格を破綻させると言う考え方です。

これについて私は次のように考えています。

「月」の光=太陽の光を反射したもの

自然界に存在している月は地球にとって闇夜を照らす存在ですが、その光とはつまり太陽光を月自身が反射したものです。つまり、月が地球の闇夜を照らす役割を果たすには太陽の光を必要とします。

ここから考えると、ホロスコープの中に存在している月にとって、自らの認識する世界(または宇宙)が完成するのは「自らの中にあるはずの太陽の輝き」が自分に届いたときだと言えます。それが届いてこない場合、自分の世界を逸脱して外部に求め、あてもなく無限に彷徨い続けるようになるのでしょう。これが月にとっての根源的な渇望だと考えることができます。

他人(=他の宇宙)の太陽では代用できない

ところが外部の太陽の光をいくら飲み込んでも渇望が癒されないのは、自分の中の月が求めているのは、同じく自分の中にあるはずの太陽からの光であるからでしょう。それゆえに外部からのものでは代用できないのだと思います。

しかし「やっぱりこれじゃない…」と思いつつも光を求めて彷徨うこと自体はやめられず、結果的に外部からの光を際限なく飲み込み続けるモンスターのように成り下がってしまうというわけです。これはなんとも悲しい末路です。

「月」を満たすことについて

自分の中の月が持つ欲求を満たすことは不可能か?というと、適切なレベルに満たすことは可能だろうと思っています。このことは人が本来もっていたはずの純真性をどこまで取り戻せるかにかかっていると思います。

適切な表現がなかなか難しいところではありますが…強い我欲に汚染されていない状態に戻ると言えばいいのでしょうか。外部の世界に植え付けられた価値観から来る欲望を削ぎ落とした状態になれるかどうかで、可否が決まると思います。

小さな子どもたちは、自分も含めた世界中の皆が分け隔てなく生きているよろこびを感じていることこそが、もっともうれしいことだと感じているはずだからです。

太陽と月の関係を適切に構築する重要性

また、私は月を解釈するときに、「魂の器」という言葉を当てたりするのですが、魂の意志の詰まった人格のコアたる太陽もまた月を必要としていて、月という魂の器がなければ安定できないのではないかなと思っています。

自らの意志を肯定する心が育まれていなければ、進むベクトルを定めることが難しいはずだからです。どこまでいっても太陽と月は互いを求める関係であるということなんだと思っています。それが地球を軸にした占星術であるジオセントリックの原理のひとつなのかなと。

おわりに:余談

さて、どうでもいい話ですが…ジオセントリックという用語を出してしまったので最後に余談を書いておきます。

私はいまのところ、サイデリアル方式のゾディアックやヘリオセントリックについても懐疑的な見方をしています。これらについてもいつか言葉がまとまったらアウトプットしてみようと思っています。ものすごく時間がかかると思うのですが…。またそのときお読みいただけましたらうれしいです。

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